2007.7月 File.02

●今週の鳥肌店

鶯谷「グリル ビクトリヤ」

●今週のおすすめ

鶯谷「香味屋」

●今週の裏メニュー

「あの頃の『僕』に会える街」

 

 


イラスト: 青木健

23 歳頃、ワケあって鶯谷に2年ほど住んでいたことがあった。

日々の所持金は 1000 円ぐらい、たまにパチンコに勝利し懐が暖かい日は、この界隈を飲み食いしたものだった。

そんな時に出会った、ある海鮮居酒屋があった。価格はリーズナブルにしてボリューム満点、金さえあればこの店に通い詰めた。 40 歳ぐらいの純朴で温厚な主人と、その雰囲気にはまるで不釣合いなほど色気のある綺麗な女房。パートのオバちゃん、厨房には主人のほか板前が3人いて、店はいつも繁盛していた。

そこで、サブ板を任される 35 歳くらいの細面で、ニヒルなヤマさんという板前と仲良くなった。僕は彼と話がしたくて、カウンターの隅をいつも陣取っていた。
「まだ卒業できねーのか」
「ええ、大学中退して、そのまま今働いているホテルの中華料理屋に就職しようかなって考えているんですよ」
「ダメだよ、ちゃんと卒業しな。後悔するぞ。料理人やりたいんだったら、確かに早いうちがいいけど。お前には迷いがあるな。それと1度でいいからサラリーマンやってみな。世の中が見えてくるから」

いつもこんな調子で僕にアドバイスしてくれていた。店の誰よりも仕事が速く正確で、そして寡黙。たまに見せる、はにかんだ様な笑い顔がシブかった。他の客には適当に話を切り上げて黙々と仕事に移るのだが、なぜか僕だけには仕事の手を休めて話をしてくれた。

そんなある日、実家に戻った帰り、山手線池袋の外回りのホームへつながる階段を上っていったら、ヤマさんがホームに並んでいるのを発見、
「あっ、ヤマさんだ」
と近づいていくと、彼がいる場所から1つ列を隔てた先の列に、店の女将さんが並んでいることに気づいた。
「ええ、なんで2人このホームにいるんだろう?」

その不自然な光景、列を隔てて並んでいるのは、誰かに見られても言い訳ができるようにとの配慮なのだろう、一瞬でその状況が飲み込めた。そして気づかれないように後ずさりした。同じ電車に乗って、僕は連結部分で人陰に隠れながら、本を読むふりをして彼らを盗み見ていた。ヤマさんは車内の中ほどでつり革につかまり、女将さんは1番隅のドアにもたれかかり背を向けていた。すると、何気なく彼女が振り返り、それに同調するようにヤマさんも顔を向け、お互い見つめあう一瞬の景色。
「ヤバイもの見ちゃったな……」

それからだった、店へ足を向けなくなったのは。まだ男女間に潔癖だった僕には、なにか嫌な感覚が生じたのだ。

考えてみれば、主人の手におえる女房じゃなかったと、経験不足だった僕にも感じられた。人は純朴でいいが、味わいがない主人、そこにちょいと陰のあるニヒルで仕事のできる男が職場に現れたら、こうなることもありえると思った。

卒業して会社員になってから数年後に、仕事の用事でこの界隈を訪れた。
「ああ懐かしいな。そうだ、あの店どうしてるかな」

しかしすでにその店はなく、違う居酒屋に様変わりしていた。あれだけ繁盛していた店なのに……。近所の人に訊ねると、張り紙もなく突然閉店してしまったそうなのだ。たぶんあの後、2人の関係が公になり、何かのトラブルが生じ、店の経営に悪影響を及ぼしたに違いないと確信した。

すでに、あの2人の関係が素直に飲み込める年齢になった。でも、穢れていなかった頃の心の揺らぎが、この鶯谷を訪れるたびに、尾?骨あたりから未だ込み上げてくるのである。